大きな命題だが、そんなに難しくない話として
人生とは何か? という問いかけは、とても究極的な命題だが、私はそんなに難しくしない観点で語りたいと思う。
思考力を語るとき、「そもそも論」に常に立ち返るのだが、究極の「そもそも論」は、人はなぜ生きるのか、である。
これまで多くの哲学者や歴史的偉人が人生に対する考え方を述べ、その究極の課題に取り組んできた。
何も哲学者や偉人達だけが人生について考察しているのではなく、人は誰でも、いつかどこかで、この命題に直面するものだ。
それは、愛する人を失った時かもしれないし、人生に絶望したとき、逆境にぶつかった時かもしれない。いずれにせよ、人はネガティブな状況に陥った時にしか、その根本的な命題にきづくことがないようだ。
人は誰でも逆境に出会い、悲しみに立ち向かう時がある。ならば、それに備えて、今からでも「人生とは何か?」という事について、考えておくのも無駄ではないだろう。
私は物心ついた時から、人生とは何だろう、と考える奇妙な子供だった。だから、その年季の入り方は尋常ではないと自負している。
どれだけ考えても結論は出なかったが、40歳迎える頃に、ようやく一つの答えを得ることができるようになった。実に35年ほどの時間は経過している。
その答えの一つが、「楽しいを継続すること」である。
とても哲学的とも道徳的ともいえない結論だが、それがベストだと私は思っている。
どれだけの考察を重ねようとも、人がなぜ人として誕生したのか、は答えを出すことはできない。それは偶然としか言いようがないからだ。
虚空間としての‘あの世’を措定すれば、幾通りもの‘生まれた理由’は語ることができるが、私はそれを思考実験で何度も試した挙げ句、それは自分にとって意味がない、ということにした。
あの世を語る宗教を否定するわけではないが、そもそも私は頭で感じることができない世界を感じようとすることができない人間のため、虚空間である世界を論じることは私にとって本当に意味がないのだ。
(虚空間とは、今の‘私’に直接的な影響を与えることができない世界。現実の世界には存在しない世界。)
人間が人間として生まれた理由は、今を生きる私たちに探ることは困難を極め、しかも証明する材料がない限りにおいて、無限の説が論じられる可能性があるわけで、この部分を考えるのは意味がない、と思う。
だから、意味があるところをキッチリと定義したほうが、私たちの生きる意味を見いだすために必要だと、私は考えたのだ。
そこで、私は、「楽しいを継続すること」が生きる目的である、と主張する。
楽しいだけでいいのか、ちゃんと物事を深く考えて、社会に貢献することを行うべきではないか、という人もいるだろう。
そんな人に私はこう反論する。
「なぜ物事を深く考えるのか?」「なぜ社会に貢献するのか?」と。
結局、「誰もが人生が楽しい」という状態を実現するためである。
楽しいを実現するために、あらゆる人間の思考と行動が行われている、と私は思う。
ただ「では何を楽しいとするか」という議論をしていないだけである。
いずれにせよ、私たち人間は、「楽しい」を実現しようとして、様々なことを考え、行動している。「楽しくない」ことを究極の目標として生きている人は、いないだろう。
「いやそんなことはない。私は楽しくない仕事をしているが、それは生活のためであり家族のためである」という人もいるが、そいう人も、「生活が楽しくなりたい」「家族が楽しい状態になりたい」という欲望で動いているのだ。
結局のところ、人は‘楽しい’ことに向かって生きており、それは人間の本能のようなものであり、更に言えば生物の本能でもある。
だから、‘楽しい’とは何か、と考えることこそ、人生を考えることであり、究極の答えなのだと思う。
あなたにとって、‘楽しい’とは何だろうか?
あなたが究極に目指す‘楽しい’とは何だろうか?
その思索の過程にこそ、あたなの答えがあるのだ。