こんにちは、鈴木領一です。
しばらくぶりのメルマガとなります。
今日は、生きること、というテーマでお話ししたいと思います。
昨年12月29日、私の家内が他界いたしました。
家内が不治の病と分かった時から、家内と私の二人で、「生きること」に向き合う日々が始まりました。
家内は自宅で最期を迎えることを決意し、私も介護をすることを決意しました。
介護の現場は、経験されていない方には想像もできない程、過酷です。
まもなく死訪れる分かっている病人にとっても、介護をする側にとっても、それは筆舌に尽くしがたい現実があります。
絶望と地獄が交互にやってくるような世界です。
その中でも、私たちは「今」を大切に過ごすことを第一にしました。
過去がどうであれ、病気がどうであれ、現実がどうであれ、「今」が、愛に溢れていることが大事だと。
容赦なく襲ってくる病の痛みに耐えながら、それでも、「今」を忘れずに一瞬一瞬を大切にしてきました。
その過程で、家内は、次第に、不安や後悔、こだわりを体から解放して、心を自由にしていったようです。
結婚して20年、良い時も辛い時もあり、後悔も、やり残したことも多かった夫婦関係でしたが、最期の時に向かって、一緒に、純粋な愛に溢れて過ごせるようになりました。
いや、もっとも純粋な愛の塊(かたまり)になったのは、家内の方だったと思います。
私は、その“おこぼれ”を貰っただけでした。
最期の日は、唐突に訪れました。
朝、一緒に同じ部屋で目覚め、いつものように介護をしながら、普通に会話をしました。
昼になり、私が家内の側でウトウトと昼寝をしていた時、ふと目を覚ましました。
すると、家内の息がゆっくりと、弱くなっていくことに気づきました。
もう意識も薄らいでいます。
私は子供達を呼びました。家内の周りに家族が集まりました。
そして、息が次第に小さくなり、最後の一息まで子供達と一緒に見守り、そして、お別れをしました。
病気で苦しんでいた時とは想像もできないほど、安らかで静かな最期でした。
私は彼女に、「がんばったね」と声をかけました。
彼女は、解放されたような表情をしていました。
私は、彼女が自由になったと感じました。
もう十分、二人で「今」に向き合い、愛情を分け合ってきた、という達成感もありました。
最期に「ありがとう」と言って、私は彼女にキスをしました。
その瞬間、私の中から何かが沸き上がるのを感じました。
死は終わりではない、人はずっと生き続ける、という、何とも言えない感覚が私を覆ったのです。
私たちは、どの年齢であろうと、どんな境遇であろうと、どんな現実であろうと、「今」を生きるしかないのです。
その「今」は、自分の心次第で、どうにでもなります。
絶望の中でも、愛を感じることもできます。
私はそれを教わりました。
そして、心と体の芯に至った愛は、もう消し去ることはできません。
それは永遠に、人から人に伝えられる。
だから、人は死なないのだ、と私は確信しました。
私は、この思いを形にして、これからも、多くの人に伝えて生きたいと思います。
鈴木領一拝